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歴史の風 115 〜山王村の修験光禅院〜

歴史の風 115

〜山王村の修験光禅院〜

江戸時代、山王の日吉神社近くに光禅院という修験の道場がありました。修験とは、日本古来の山岳信仰に基づく日本独特の宗教です。

「山王村風土記御用書出」によれば、日吉山光禅院は羽黒派の修験で、中山王に竪横とも2間の南向きの道場があって、本尊は高さ2尺3寸の不動明王の木仏立像と記されています。本山は出羽国羽 山の薬王寺で、開山については不明ですが、慶長7(1602)年に瀧本坊清林が中興となり、元和3(1617)年に南宮村から山王村に移ってきたとの伝承も記されています。

延享3(1746)年の「仙台領羽黒派修験連名帳」の中に、黒川郡大童村吉祥院の支配として「山王村 光禅院」の名を見出すことができ、書上の記載を裏付けることができます。

また光禅院は、村の山王権現社(日吉神社)、南宮村の南宮明神社の別当を務めており、山王権現社の境内地の地主は光禅院でした。南宮の庚申神社にある享保10(1725)年の庚申塔や、慈雲寺の女性たちによる天明5(1785)年の地蔵菩薩立像には導師として光禅院の名が刻まれており、山王・南宮村における様々な宗教的祭事を主宰したことがうかがわれます。

明治初年、政府によって神仏分離令が公布され、修験道が禁止されるに伴って光禅院も廃院となり、今では山王・南宮地区でもその存在を知る人が少なくなりました。山王村の西のはずれにあたる新田字北の畑地の中に7代定慶、9代太竜と13代宥眼の養母、宥眼妻の3基の墓標が残されており、修験光禅院の面影を伝えています。