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歴史の風 117 ~陸奥総社宮と神社合祀~

歴史の風 117

~陸奥総社宮と神社合祀~

陸奥総社宮例祭の神輿

陸奥総社宮は、平安時代中期に編集された「延喜式」に記載のある陸奥国の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)100社を祭る神社で、字奏社に鎮座しています。

江戸時代には奏者明神社・奏社宮などと呼ばれ、鹽竈神社の十四末社の一つであり、市川村の村鎮守でもありました。

文政5(1822)年に仙台藩の儒学者舟山萬年の記した『鹽松勝譜』には、鹽竈神社に参拝する際には奏社宮を詣でてからでないとご加護がないと記されており、鹽竈神社参拝者は、奏社宮を参拝してから鹽竈神社へと向かいました。

明治43(1910)年、周辺の南宮神社、日吉神社、大日賣神社(大日堂)、冠川神社を合祀(ごうし)するための「神社合祀願」が氏子惣代をはじめとした各地域の住民から出され、これらの神社は陸奥総社宮に合祀されることになりました。

この動きは明治政府の政策によるもので、請願というかたちはとられましたが、住民の本意ではありませんでした。そのため、各地域には合祀後も社殿が存在し、祭祀は継続されました。

しかし、合祀を機に陸奥総社宮と周辺地域との関わりが強まったこともまた事実であり、現在でも4月の例祭には神輿(みこし)が合祀した神社の地域を訪れ、担ぎ手一行を住民たちが迎えます。

現在市内で神職がいる神社は陸奥総社宮と大代の柏木神社のみとなっています。そのため、市内各所の祈祷(きとう)をはじめとしたさまざまな神事を担い、人々の生活にとってなじみ深い存在となっています。

出典:広報多賀城 歴史の風117~陸奥総社宮と神社合祀~

※写真は令和三年撮影