歴史の風 136 ~古代の寺院と神社~
歴史の風 136
~古代の寺院と神社~
インドで成立した仏教は、中国大陸から朝鮮半島を経て、6世紀に日本に伝えられ、当初は豪族や天皇の一族に受け入れられました。
7世紀中頃になると、仏教の力を借りて国家を安定させようという意図(鎮護国家(ちんごこっか))により、当時の都に官寺(かんじ)(造営や維持の費用を国家から受ける寺)が建立されました。全国に国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)の寺院を置くことを定めた741(天平13)年の「国分寺建立の詔(みことのり)」も、このような背景から出されたものです。
さて、奈良・平安時代の陸奥国(むつのくに)の国府である多賀城に付属する官寺が多賀城廃寺です。東北地方の安定を願い、多賀城と同時期に創建され、名称は「観世音寺(かんぜおんじ)」と推定されます。発掘調査により塔や金堂(本尊仏が安置される寺の中心建物)、講堂(僧侶が勉強する建物)などが見つかり、遠く離れた大宰府の付属寺院である観世音寺(福岡県)や多賀城より古い郡山遺跡の付属寺院の郡山廃寺(こおりやまはいじ)(仙台市)と建物配置が類似します。
仏教と同様に神々を祀(まつ)る神社にも、国家の平安や天皇を守ることが求められていました。奈良・平安時代には、全国各地の主要な神社を国家の管轄下に置きました。そのような神社を官社(かんしゃ)といいます。927(延長(えんちょう)5)年に完成した『延喜式(えんぎしき)』という法典の「神名帳(じんみょうちょう)」(官社の台帳)には、2861社の官社が記載されていました。これらの官社をとくに式内社(しきないしゃ)といい、後世、神社の格式を示すものとして重要視されました。
陸奥国には100社の式内社があり、畿内を除けば圧倒的に多い数で、蝦夷(えみし)の抵抗が強かった東北地方の安定祈願を込めたものと考えられます。その中で、宮城郡に「多賀神社」という名があり、国府多賀城の近くにあったと思われますが、元の社地ははっきりしません。
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