歴史の風 139 ~さまざまな城柵~
歴史の風 139
~さまざまな城柵(じょうさく)~
城柵とは、古代の東北地方や北陸地方に置かれ、蝦夷(えみし)の居住地に対する支配拡大のため、律令国家(りつりょうこっか)によって設置された軍事・行政施設です。材木塀(ざいもくべい)や築地塀(ついじべい)などによって施設全体を囲む特徴があります。
本市の市名の由来となった多賀城は、724(神亀元)年に創建された代表的な城柵の一つです。創建当初は多賀柵(たがのさく)と呼ばれ、奈良時代には鎮守府(ちんじゅふ)と陸奥国府(むつこくふ)が併せ置かれました。
720(養老4)年、東北地方の長官であった上毛野広人(かみつけぬひろひと)が、蝦夷によって殺害されるという事件が発生します。律令国家による東北経営は根本的な見直しを迫られました。その結果、多賀柵(多賀城市多賀城跡)・新田柵(にいたのさく)(大崎市田尻 新田柵跡推定地)・色麻柵(しかまのさく)(加美町 城生柵(じょうのさく)跡)・牡鹿柵(おしかのさく)(東松島市 赤井(あかい)遺跡)・玉造柵(たまつくりのさく)(大崎市古川 名生館官衙(みょうだてかんが)遺跡)などの諸城柵が設置され、扇のように展開する防衛ラインが形成されます。多賀城は、まさに扇の要(かなめ)に位置しています。これ以後しばらくの間、蝦夷との大規模な争いは発生せず、均衡状態が保たれました。この防衛ラインは、律令国家と蝦夷の暗黙の境界であったと考えられます。
この境界を越えたのが、律令国家側による桃生城(ものうじょう)(石巻市)・伊治城(いじじょう)(栗原市)の建設です。両城の構築は、蝦夷の強い反発を生むものでした。774(宝亀5)年には沿岸部の蝦夷により桃生城が、780(宝亀11)年には伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)により伊治城・多賀城などが襲撃されました。以後東北地方は38年戦争と呼ばれる戦闘状態に突入します。律令国家の勢力拡大とともに城柵も北上し、9世紀初頭には岩手県域に志波城(しわじょう)(盛岡市)・胆沢城(いさわじょう)(奥州市)・徳丹城(とくたんじょう)(矢巾町)などが築かれました。
各地の城柵を統括した多賀城は、国家による東北経営の中心として、古代を通して重要な役割を担っていたのです。
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