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歴史の風 140 ~多賀城と藤原朝猟~

歴史の風 140

~多賀城と藤原朝猟(ふじわらのあさかり)~

 奈良時代に藤原朝獦という貴族がいました。朝獦は、当時光明(こうみょう)皇太后の信任を得て、政府の中心で権勢をふるっていた藤原仲麻呂(なかまろ)の息子です。

 朝獦は、仲麻呂政権下で757(天平宝字元)年に従五位下(じゅごいげ)、陸奥守(むつのかみ)に任じられ、律令国家の支配を強化するため出羽国雄勝城(でわのくにおがちじょう)と陸奥国桃生城(むつのくにものうじょう)の造営にあたりました。その結果として、760(天平宝字4)年に従四位下(じゅしいげ)、陸奥国按察使兼鎮守(あぜちちんじゅ)将軍に任命され、より強い権限を持つようになります。このころ、朝獦は秋田城と多賀城の修造も行っています。

 この時の多賀城の修造は、全面的なものであったことが発掘調査から分かっています。政庁の主な建物は掘立柱建物から礎石建物(そせきたてもの)へ改築し、すべての建物を瓦葺(かわらぶき)にしました。

 また、現在復元している外郭南門は、朝獦の修造の際に造られたものを基にしています。最初に造られた南門は、復元中のものより約120メートル北側にあり掘立柱建物であることが発掘調査から分かっています。朝獦は南門の位置を南へ移し、桁行(けたゆき)9メートルの瓦葺礎石建物を造りました。朝獦の修築により、多賀城の外観は大変豪華になり、荘厳化(しょうごんか)されました。これには、朝獦の父仲麻呂が推し進めていた中華思想に伴う北方支配拡大という政策が大きくかかわっていたと考えられています。

 この事業は、多賀城碑によると762(天平宝字6)年に完成したことが分かります。

(問)埋蔵文化財調査センター  TEL368-0134