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歴史の風 96 ~新田の割石~

歴史の風 96

~新田の割石~

安永3(1774)年に作成された「新田村風土記御用書出」は、中世の供養塔である板碑1基を取り上げ、古碑の項で次のように説明しています。
古碑 竪七尺五寸、横四尺六寸。これは割石という石で、久しく川中に埋まっていたが、名石であるというので、村の者達が街道へ引き上げて置いておいた。碑の上部に梵(ぼん)字が一つあり、正和元年八月十九日と年月が記されているが、何の碑であるのかは分からない。

新田地区で、正和元年(1312)8月19日の紀年銘をもつ板碑は、仙台市との境界をなす七北田川の左岸、上河原の現在ゲートボール場となっているあたりに1基現存しています(写真右)。この板碑は、「書出」に記載された割石より寸法は下回りますが、造立年次は完全に一致しています。
また、割石という名がついた理由について、「書出」には記載がありませんが、『多賀城町誌』には「あたかも大石を割った様に形正しい石であるから」という古老の話を収録しています。上河原にある正和元年の板碑は、アルコース砂岩という硬質の石材を方柱状に加工したものであり、この板碑が「書出」に記載された割石である可能性は高いと考えられます。

ところで、『町誌』には、割石にまつわる次のような伝説が収録されています。
川が大雨のたびに決壊するので、堤防の改修工事を行った際、一人の女性を人柱として生き埋めにした。工事は無事完成したが、夜な夜な幽霊が現れるようになったので、人柱にされた女性の幽霊だと噂された。それを聞いた武士が退治しようと斬りつけたところ、カチンという金属音とともに幽霊は消え失せ、そこに立っていたのは一基の石碑だった。切割って生じた石というところから割石になった。

現在、上河原には「書出」に記載がある正和元年の板碑とともに、縦に二つに割れた元応元年の板碑があります(写真左)。昭和12年の『多賀城六百年史』では、元応元年の板碑を「割石の碑」と命名したため、その後『町誌』や『多賀城市史』でもそれを踏襲して現在に至っています。しかし「書出」の記載を見る限り、割石は正和元年の板碑のことであり、元応元年の板碑は、真っ二つに割れているその姿から誤解されたものと考えられます。

出典:広報多賀城 歴史の風117~陸奥総社宮と神社合祀~

※写真は令和三年撮影