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歴史の風 98 ~南安楽寺古碑群~

歴史の風 98

~南安楽寺古碑群~

南安楽寺古碑群七北田川の堤防に面した新田字南安楽寺(みなみあんらくじ)の住宅地の一角に、古い石碑が13基集められた場所があります。それらは、もとはすぐ西側の河原にあったもので、河川や堤防の改修工事によって、現在地に移されたということです。
石碑の中には、中世に盛行した石製の塔婆(とうば)である「板碑(いたび)」が9基あり、一か所にまとまっているものとしては、市内で最も数が多いものとなっています。
板碑の年代は、正応3(1290)年から正和元(1312)年まで、鎌倉時代後期のものが5基あり、年号がないものも、同じ年代の可能性が高いと考えられます。

年次が記された5基については、2月に建立されたものが1基、8月に建立されたものが3基あります。それらの中には「彼岸(ひがん) 第二」「彼岸 第七番」と明記されているものがあり、七日間の彼岸の二日目と最終日である彼岸明けを示すことから、2月と8月に建立された4基の板碑は、旧暦のそれぞれ春と秋の彼岸に建立された板碑であると考えられます。

彼岸とは、生きているこの世である此岸(しがん)に対し、悟りの境地にある側ということで、平安時代末期に広まった浄土教では、阿弥陀如来がいる浄土と理解されています。阿弥陀浄土が西方にあるところから、太陽が真西に沈む春分・秋分の日没時、夕日に向かい、浄土の姿を心の中で捉えようと深く思いをこらすと浄土に行ける、という教えが広まったと考えられています。

9基の板碑の中には、「観無量寿(かんむりょうじゅ)経」という経典の中の一節を刻んだものが2基あります。それは「光明(こうみょう)は遍(あまね)く十方(じゅつぽう)世界を照らし、念仏の衆生(しゅじょう)を摂取して捨てず」というもので、念仏を唱えることで極楽往生できることを説く経典にふさわしい部分です。
南安楽寺古碑群の板碑からは、彼岸に夕日に向かって念仏を唱え、そして塔婆を建立するという、彼岸の供養の具体的な状況をうかがうことができます。南安楽寺地区の西側を流れる七北田川は、中世には冠川と呼ばれ、中世の国府である「多賀国府」の西の境界にあたります。南安楽寺古碑群は、その河原が、鎌倉時代後期頃に、国府で暮らした人々の彼岸供養の場であったことを物語る遺跡ということができます。