歴史の風 7 ~明治天皇の多賀城巡幸~
歴史の風 7
~明治天皇の多賀城巡幸(たがじょうじゅんこう)~
今から135年前の明治9年(1876年)6月29日、洋服の近衛騎兵や巡査を先頭に、西洋式の馬車に乗った明治天皇の行列が鹽竈神社より旧塩釜街道を西に進み、多賀城村へ入りました。総勢230人におよぶ一団の中には右大臣岩倉具視(いわくらともみ)、内閣顧問木戸孝允(きどだかよし)、宮内卿徳大寺實則(とくだいじさねのり)、侍従長東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)といった多くの政府高官も従っています。そのきらびやかな行列を一目見ようと、沿道は集まった人々で溢れかえりました。
明治天皇の地方の巡幸(天皇が各地をまわること)は、明治5年(1872年)の近畿・中国・九州の第一回巡幸から、明治18年(1885年)の山陽道巡幸までそれぞれ、2カ月をかけて計6回行われました。奥羽巡幸はその第2回目に行われたもので、地方の旧家に滞在・休憩し、県庁や学校、裁判所を視察するなど、以後の巡幸の形式を決める重要な巡幸となりました。すべてが西洋式の行列を見た当時の人々は、新しい時代の到来を肌身に感じたことでしょう。
それでは、当時の宮城県の記録から多賀城村での明治天皇の足取りを見てみましょう。
午前8時、宿泊先の鹽竈神社の参詣を終えた一行は東参道(裏坂)を出発、多賀城村の休憩所である市川字五万崎の菊池市郎右衛門邸に到着します。屋敷廻りには菊の紋章を黒く染めた幔幕(まんまく)が張り巡らされ、儀仗(ぎじょう)の近衛騎兵が屋敷の周囲を厳重に警護していました。休憩のための十畳の間にはじゅうたんが敷かれ、明治天皇は軍服を着用して椅子に腰かけて休まれています。
菊池邸で板輿(いたごし)に乗り換えた明治天皇は、畑道を通って政庁跡に到着、礎石の残る正殿跡付近に輿を据えてしばし遺跡をご覧になっています。次に向かった多賀城碑では、そのまま輿の内からご覧になったと記されています。
その後再び菊池邸へ戻られた明治天皇は、菊池家が保管していた「古代の箭(せん)(矢)の根」や宮城県官が用意した「古瓦(こがわら)」をご覧になり、そのおり菊池蔵之助より「多賀城碑の五色の石摺(いしずり)」と「城址案内圖(ず)」の献上を受けています。
休憩の後に一行は多賀城村を出発し、南宮村、岩切村を経て10時13分には今市村にて昼食、11時10分に宿泊先である榴ケ岡の梅原林蔵邸に到着しています。
多賀城での滞在時間は短いものでしたが、「当所は閑静なる所故、(明治天皇は)御緩(ゆる)りと御御休(おんおやす)みあらせ給ひし」と随行した職員が話しています。