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歴史の風 11 ~多賀城やきもの事始め~

歴史の風 11

~多賀城やきもの事始め~

やきものブームと言われて久しい昨今です。そこで、今回は市内で発見されたやきものの窯跡(かまあと)を紹介します。

日本で最初にやきものが作られたのは、今から約1万2000年前の縄文時代と言われています。当時のやきものは土器と呼ばれるもので、縄文土器、弥生土器、土師器(はじき)と時代によって呼び名が変わります。これらは、明確な窯をもたず「野焼(のや)き」によって1000度未満の低い温度で焼いたあまり丈夫でないものでした。その後、古墳時代中ごろになると、朝鮮半島から須恵器(すえき)と呼ばれる新しいやきものの製作技術が伝えられました。これ以降、本格的な窯を用いることによって、堅く丈夫なやきものを作ることができるようになったのです。

さて、陸奥国府多賀城が成立した奈良時代には、建物に葺(ふ)く瓦と日常容器の須恵器は同じ窯で作られていました。それらの窯は、当初は今の大崎市付近に、その後は仙台市の東部地域や利府町に作られました。しかし、一大消費地である多賀城が所在する市内では、窯跡は発見されませんでした。

ところが、平成18年に留ケ谷地区で行った発掘調査の際に、予想もしなかった窯跡が見つかったのです。しかも、多賀城創建時期から約100年もさかのぼるもので、この時期の窯跡の発見は宮城県内では初めて、東北地方でも福島県で発見されたものに次いで2例目でした。

この窯跡は、丘陵地斜面をトンネル状に掘り抜いて構築した窖窯(あながま)(登窯(のぼりがま)の一種)と呼ばれるもので、須恵器を専用に焼いていました。焼成の最終段階に入り口をふさぎ、酸素の供給量を抑えることで、1200度以上の高温で焼きあげることができます。そのため、側壁や床は青みをおびた灰色に変色し、硬く焼きしまった状態になっていました。

4年後の平成22年に、今度は城南地区でこれよりやや古い時期の窯跡が発見されました。これらで焼かれた須恵器は、市川・山王地区で発見された大規模な集落に運ばれ、まつりの道具として使われたことがわかりました。このことは、多賀城成立前夜ともいうべき時代に、当時の最新技術を受け入れる進んだ環境を、当地がすでに整えていたことを物語っています。