歴史の風 13 ~多賀城跡の保護~
歴史の風 13
~多賀城跡の保護~
多賀城跡が大正11年(1922年)に国の史跡に指定されてから今年で90年になります。史跡等の保存を目的とした法律は、大正8年に制定されましたが、それから間もない時期に史跡となったのは、地元の人々による長年の保護活動があったからにほかなりません。
江戸時代初め、多賀城碑の発見により市川・浮島にある遺跡が、古代の文献にある多賀城の跡であることがわかると、佐久間洞巌(どうがん)など仙台藩の学者はもとより、地元の人々も、築地の跡や礎石、瓦の観察などを進めていきます。
安永3年(1856年)、仙台藩が領内の各村に作成、提出させた「風土記御用書出(ふどきごようかきだし)」には、多賀城跡に関して、大野東人(おおののあずまひと)の居城であることなどが記されています。
翌安永4年(1857年)成立の『仙台金石志(きんせきし)』を見ると、畑となっていた政庁地区の中に、荻(おぎ)が生い茂る「御座(ござ)の間(ま)」跡と伝わる場所があり、そこは憚(はばか)りがあるという理由から耕作しなかったという記載があります。また、村内にある90個余りの大石は、村人が取り締まり村外に出さなかったともあり、多賀城跡への意識の高まりと、積極的に保護にあたっていた様子が読み取れます。
近代になっても、明治9年(1876年)、市川村住民が「永世保存ノ志願(えいせいほぞんのしがん)」により、政庁跡の一部や、多賀城碑周辺の土地を国に寄進し、さらに、私費による管理を県に願い出て、許されています。
明治22年(1889年)に発行された「多賀城古趾(こし)の図(ず)」には、住民自らが江戸時代末期から多賀城跡の広さを調べていたことが記されています。この絵図は、明治9年、天皇の東北視察の際に提出したものがもとになっており、多賀城跡の紹介に広く利用され、大正11年の史跡指定にあたって大きな役割を果たしたと言われています。
このように、住民の地道な活動により守り伝えられてきた多賀城跡は、発掘調査により古代東北の歴史解明にあたって極めて重要な遺跡であることが判明し、昭和41年(1966年)、特別史跡に昇格しました。