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歴史の風 22 ~御舟入堀~

歴史の風 22

~御舟入堀~

 貞山運河の一つ御舟入堀(おふないりぼり)は、塩竈湾の牛生(ぎゅう)から七北田川河口の蒲生にかけて、全長約7kmにわたって掘削されました。

 この運河は、仙台藩の海の玄関口とも言うべき塩竈湊と仙台城下を結び、塩竈湊に送られてくる米などの重荷を舟運で城下近くまで輸送することを目的としたものでした。そのため、それまで湊浜(七ケ浜町)で太平洋に注いでいた七北田川を蒲生へと向かうよう付け替え、さらに、七北田川―苦竹間を結ぶ舟曳堀(ふなひきぼり)も開削されました。

 これら一連の工事は、万治年間(1658~1661年)には着工されたことが安永3年(1774年)の風土記御用書出から知ることができます。また、この事業を推進した藩の出入司(しゅつにゅうつかさ)(財政担当)・和田織部房長が鹽竈神社に奉納した願文には、「安全な工事は鹽竈神社の御加護によるもので、これに報いるために工事が完了した際には、石灯籠二基を献上する」と記されています。

 この石灯籠は鹽竈神社境内に現存し、奉納年月日は寛文13年(1673年)3月吉祥日となっていることから、この時に完成していたことがわかります。

 御舟入堀の完成により、仙台藩領北部から仙台城下へは、塩竈から陸送することなく物資を輸送することが可能となり、その結果、素通りされる塩竈の衰退を招くこととなりました。そのため、貞享2年(1685年)伊達綱村は「藩米以外の荷物や魚介類、材木を積んだ船はすべて塩竈湊に着岸すること」という特令を出して、塩竈の町を保護し、繁栄をみることとなります。その後、東宮・吉田・菖蒲田・花渕・松ケ浜・代ケ崎(以上、七ケ浜町)・大代(多賀城市)・蒲生(仙台市)の八つの浜が、この特例撤廃を藩に願い出た結果、夏の期間、生魚に限って、八つの浜に水揚げすることが例外的に認められ、七ケ浜・大代から仙台城下への生魚輸送ルートも構築されることとなりました。

 このように一部例外措置はありましたが、御舟入堀は明治を迎えるまで、米中心の輸送路として機能していました。