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歴史の風 28 ~野蒜築港事業と貞山運河~

歴史の風 28

~野蒜築港事業と貞山運河~

 政府直轄で行われた日本初の洋式港湾事業として野蒜築港(のびるちっこう)事業があります。この事業は、大久保利通が仙台湾に東北の要として港湾建設を考え、明治9年(1876年)の明治天皇の東北巡幸に先立ち、仙台湾岸を視察したことに始まります。大久保は、帰京後、内務省土木局長石井省一郎とオランダ人技術者ファン・ドールンに適地調査を行わせ明治10年(1877年)、ドールンが「野蒜築港計画書」を提出し、港湾建設に鳴瀬川河口の野蒜が選定されました。事業は、明治年(1878年)、閘(こう)門(もん)建設と北上運河開削から開始され、閘門は石井省一郎にちなみ、「石井閘門(いしいこうもん)」と名付けられました。その後、新鳴瀬川の開削、鳴瀬川河口の突堤建設、市街地の造成、東名運河の開削が行われます。

 この野蒜築港事業に連動して、宮城県は六大工事とし、関山街道(せきやまかいどう)や貞山運河の改修等を展開します。このうち、貞山運河については、明治16年(1883年)、松島湾から阿武隈川までの御舟入堀、新堀、木曳堀を一連の運河として改修するため、大代に貞山堀出張所を開設し、干潮時の水路幅を16~25メートル、水深を1・5メートルにする工事が実施されました。この工事は、明治22年(1889年)には完成し、現在見ることができる運河景観ができあがりました。東北南部の大動脈となるべき野蒜築港事業と貞山運河の改修でしたが、明治年(1884年)の嵐により野蒜港の突堤が流出するなど、致命的打撃を受け、築港事業は頓挫(とんざ)します。また、貞山運河については、明治20年12月、日本鉄道会社奥州線「上野―仙台―塩釜」間が開通したことにより、物資輸送は鉄道へと移行し、運河に対する期待は、薄れていくこととなりました。

 今日見る運河の石積み護岸、水路幅や切り通しの風景は、この時の拡張工事によって、その原型が造られたものです。貞山運河は、日本最初の直轄港湾事業に伴う運河遺構として重要であることから、平成年、日本土木学会により「土木学会選奨土木遺産」に選定されました。