歴史の風 31 ~貞山運河の役割~
歴史の風 31
~貞山運河の役割~
貞山運河建設の目的は、陸上輸送では難しかった大量の物資輸送を可能にすることにありました。
阿武隈川―名取川間の木曳堀(きびきぼり)は、仙台城築城および城下町建設にあたり、木材等輸送のため建設され、塩竈―蒲生間の御舟入堀(おふないりぼり)については、仙台領北部の穀倉地帯から米を仙台城下へ輸送するために掘削されたものでした。特に、御舟入堀が建設されたことにより、松島湾から外洋へ出る必要がなくなったことから、仙台城下まで安全な物資輸送が可能になりました。さらに、仙台城下への物資輸送中継地として七北田川河口に蒲生御蔵(がもうおくら)が置かれ、大代村には米穀の出入りを監視する「御石改所(おんこくあらためじょ)」が置かれるなど、運河と密接に関わりをもつ地域も現れました。御舟入堀の建設により、塩竈に物資が荷揚げされなくなったことから、貞享(じょうきょう)2年(1685年)、米以外の荷物は塩竈で水揚げをさせるという法令が発せられ、御舟入堀は米中心の輸送路として、幕末までその役割を果たすこととなりました。
明治9年(1876年)、明治天皇の東北巡行に同行した内務卿大久保利通は、東北開発を明治政府の一大プロジェクトと位置づけ、日本初の近代港湾建設構想を立ち上げます。そして、開発の拠点となる港湾の適地として野蒜(東松島市)を選び、明治11年(1878年)、野蒜(のびる)築港事業が開始されました。この事業は台風などの被害により頓挫しますが、東名・北上運河の建設は進められ、北上川―北上運河―東名運河―松島湾―御舟入堀―新堀―木曳堀―阿武隈川と繋がる、岩手県から福島県までの舟運路が完成します。
明治20年(1887年)12月、日本鉄道会社奥州線「上野―仙台―塩釜」間が開通し、物資輸送は運河を利用した舟運から鉄道へと移行するものの、「明治廿四年河港河川調書」によれば、貞山運河は、穀類・食塩・砂糖・木材・薪炭・魚類・石類・雑貨物などの輸送に利用されていたことがわかります。また、多賀城海軍工廠への輸送確保、荷役力増強の一躍を担うものとして位置づけられ、昭和18年(1943年)4月から県営工事として改修が計画されるなど、近代まで主要輸送路として、重要な役割を果たしました。