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歴史の風 61 ~江戸時代の多賀城跡~

歴史の風 61

~江戸時代の多賀城跡~

 遺跡としての多賀城跡が初めて記録に登場するのは延宝5年(1677年)の『仙台領古城書立之覚(かきたてのおぼえ)』です。その中では「奥州国司館(おうしゅうこくしのたち)」、大野東人(おおのあずまひと)の居城であると記されています。これは万治・寛文年間(1658~72年)に発見された多賀城碑の影響が反映された結果と考えられますが、中世の城館跡との区分は明確ではなく、遺跡の範囲も政庁地区の広さとほぼ同じとなっており、かなり限定的な捉え方だったようです。その約100 年後の安永3年(1774年)『市川村風土記御用書出(ふどきごようかきだし)』になると、「大野東人の居城」という認識はそのままに、本丸(政庁地区)・二の丸・三の丸(多賀城外郭)という記載から、多賀城跡をかなり広い範囲として把握するようになりました。さらに本丸・二の丸には礎石が残り、時折、瓦も掘り出されると記すなど、多賀城跡に対する観察が進んでいたことがうかがえます。その半面、本丸などという表現は、近世の城館と同様の捉え方でした。

 一方、多賀城廃寺跡については、延享2年(1745年)『塩竈社記(しおがましゃき)』の記事が最初で、多賀城跡の東、高崎の地にあった大社の跡と記されています。その後、安永3年の『高崎村風土記御用書出』になると、多賀城と同時期の七堂伽藍(しちどうがらん)があったと記載されるようになりました。風土記御用書出はいずれも地元の肝入(きもいり)が藩に提出したもので、江戸時代の半ばにはそれぞれの遺跡に対する認識が深まっていたことがわかります。さらに幕末も近い頃の記録には、政庁地区一帯は畑となっていたものの「御座の間(ござのま)」と呼ばれる一画は畏(おそ)れ多いところとして耕作されなかったこと、城内の石碑や礎石などを村人が外に持ち出さないよう取り締まっていたことなども書かれています。

 このような遺跡に対する認識や、住民たちによる保護意識の高さが、後の多賀城跡史跡指定につながる大きな要因となっていきました。

 昭和41年に多賀城跡と多賀城廃寺跡が特別史跡に指定されてから今年で50年目にあたることを記念して、10月から多賀城跡の保存と研究をテーマに企画展を開催する予定です。「歴史の風」でも来年3月まで関連のシリーズをお届けします。