歴史の風 62 ~明治時代の保存と管理~
歴史の風 62
~明治時代の保存と管理~
多賀城跡に対する認識や保護活動は、江戸時代に始まりました。当初多賀城政庁跡のみを対象としたものでしたが、18世紀後半、地元市川村肝入が仙台藩に提出した資料には、政庁地区を本丸、多賀城跡の外郭線を三の丸と捉えるなど、現在の多賀城跡と同様の範囲を遺跡として把握していたことが分かります。
明治22年、地元市川村住民が「多賀城古趾の図」を印刷・刊行しました。これにはおおよその地形図の上に礎石や築地の高まりなどが記され、今日の地表面観察や発掘調査成果とほぼ一致しているという評価が与えられています。この絵図は明治9年、天皇の東北地方視察の際に作成・提出した図面をもとに作られたもので、絵図の上部に作図の経緯が記されています。そこには、製作者自身、市川村で生まれ育ち、城跡の実態を確かめようと歩き廻り、数十年城跡の境界線捜索に従事し、ようやく明治8年に絵図としてまとめることができたとあります。そして明治9年6月、東北地方視察で訪れた天皇に奉献した絵図に手を加え、城跡の来観者の求めに応ずるため刊行されました。一般に販売されたこの絵図は、多賀城跡を分かりやすく紹介する上で大きな役割を果たすとともに、研究者にも広く採用されました。
一方、天皇の視察を期に、記念碑を建てようという動きがあることを、政庁地区の土地所有者が耳にします。そして、そのような場所を私有することに恐縮し、土地を献上して、永く古城として保存してもらいたいと、宮城県に対し願書を提出しました。視察から5カ月後の明治9年11月16日のことで、その面積は524坪、政庁地区の中心部を含むその約7分の1に相当します。この願いは翌明治10年11月6日に聞き届けられました。
さらに明治31年になると、献上者の子孫はじめ2名が、「多賀城古跡官有地無料取締願」を提出しています。これは、多賀城古跡において近年、見学者が瓦を掘り出すなど、古跡を荒らしているので、無料で取り締り、礎石や芝などの散乱を防ぎたいということ、そして私費により古跡はもちろん通路などの清掃を行い、見学者の便宜を図かりたいという内容でした。
大正8年、「史蹟名勝天然紀念物保存法」が制定され、大正11年10月、奈良の平城宮跡などと共に多賀城跡は「多賀城跡附寺跡」として史蹟指定を受けました。