歴史の風 64 ~昭和前期の多賀城跡~
歴史の風 64
~昭和前期の多賀城跡~
江戸時代の終わり頃、安政4年(1857年)に成立した『仙台金石志』に、多賀城政庁跡に関する記載があります。政庁跡は、今畠となっており、その中に畠とはならず荻(おぎ)や蘆(あし)が茂っている場所があり、地元市川村民は「御座の間」の跡と呼んで、畏れ多い所と言い伝えているというものです。「御座の間」とは一般的には貴人のいる場所という意味で使われる言葉ですが、市川村の人々が、具体的に誰の居所を指してそう呼んでいたのか、記録からは伺うことができません。
そのような「御座の間」の性格付けを明確にしたのが国学者大槻文彦でした。大槻はまず明治33年(1900年)に発表した「多賀国府考」において多賀城の変遷を説明し、多賀城が「多賀国府」と呼ばれてからも、市川村の地にあり続けたと主張しました。そして明治44年「多賀城多賀国府遺蹟」において、政庁を「牙城(がじょう)」と呼び、周囲には土塁を巡らせ、その中央には、義良(のりなが)親王、北畠親房(きたばたけちかふさ)、顕家(あきいえ)の居所があることから、「御座の間」と称していたと結論付けました。義良親王とは、のちの後村上天皇です。こうした大槻の見解は、国家主義的な風潮と結びつき、多賀城は南朝方の拠点として、天皇ゆかりの「聖蹟(せいせき)」とみなされるようになっていきます。
昭和9年、建武中興(けんむちゅうこう)600周年にあたるこの年の4月14日、多賀城跡において記念祭が行われました。政庁跡には遥拝所(ようはいじょ)や慰霊祭場(いれいさいじょう)が設けられ、第二師団長代理をはじめとする関係者や地元小学校の児童など約千人が参加したということです。山王小学校に残されている同日の学校日誌にも、尋常4年以上の児童が建武中興六百年宮城県記念祭に参加したことが記されています。日誌によればこの日の天候は晴れ、気温は約15度でした。こうした気運の盛り上がりの中、多賀城神宮創建期成会が発足し、宮城県に神宮建設の陳情を行うなど積極的に運動を起こしましたが、神宮建設は実現せず、結果的に史跡の破壊を免れることになりました。しかし一方では、多賀城跡の正しい歴史認識に立ったものではありませんでしたが、その時代の歴史的価値観から重要な史跡とみなされ、保存の対象となっていたこともまた事実でした。