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歴史の風 66 ~覆された多賀城像~

歴史の風 66

~覆された多賀城像~

 昭和44年、多賀城跡調査研究所が設立され、計画的・継続的な発掘調査が行われるようになると、多賀城の実態が急速に明らかになっていきました。

 政庁地区は当時、内城と呼ばれ、古くから建物の礎石が露出し、その周囲には約100メートル四方に巡る土塁状の高まりの存在が知られていました。発掘調査により、奈良時代から平安時代に及ぶ多数の建物跡の存在が確認され、それらを時期別に整理すると、各時期ともほぼ同様の建物配置によっていたことが分かりました。すなわち中心となる正殿が中央のやや北側に位置し、その前方には広場を挟んで東西の脇殿(わきでん)が向き合い、南辺築地の中央には南門が開くというように、左右対称の建物配置となっています。また、土塁状の高まりは築地塀であることが判 明し、築地塀で囲まれた内城の在り方は、大宰府の都府楼や近江国府の政庁と基本的に同じであり、地方官衙(かんが)(役所)の中枢部の構造に極めて類似することが明らかになっていきました。多賀城については、当初蝦夷に対する軍事的な前線基地として設置されたものが、蝦夷征討が進むに従って拡大整備され、鎮守府が置かれて、やがては陸奥国府も併せ置かれるようになったと考えられていましたが、発掘調査の成果から導き出された見解は、このような定説に見直しを迫るものでした。

 また、多賀城の性格に関わる大きな問題として、外郭線の構造があります。外周に巡らされた土塁状の高まりは、当初からその存在が注目されていましたが、発掘調査によって瓦葺きの築地塀であることが確認されました。約900メートル四方に及ぶ外郭線が、軍事施設に相応しい土塁ではなく、宮城(きゅうじょう)や大寺と同様の築地塀であったということは、内城が実は政庁であったという事実とともに、多賀城の性格が基本的には官衙であることを裏付ける極めて重要な発見となりました。

 日々成果を上げる多賀城跡の発掘調査は、従来の定説に真っ向から対立するものとなり、その是非をめぐって東北地方の古代史に関わる議論が盛んになっていきました。しかし、城柵に対する偏見は根強く、それを覆していくことは容易ではありませんでした。