歴史の風 90 ~高崎氏と化度寺~
歴史の風 90
~高崎氏と化度寺~
本市のほぼ中央部、高崎二丁目5番地に曹洞宗の寺院化度寺があります。昭和49年に建てられた参道の門柱には、明応7(1498)年に高崎彦三郎盛忠が開基となり、天台宗の寺院として創建された、と記されています。
室町・戦国時代に、高崎村をはじめ、八幡、蒲生、岡田、中野など五カ村を支配したのは八幡氏です。八幡氏は、鎌倉時代に八幡村の地頭に任じられた、多賀国府の次官「陸奥介」の家柄とも推定され、一時は留守氏を凌ぐ勢いがありましたが、やがてその家臣となり、留守氏が宮城郡を離れると、それに従いました。
同家には「平姓八幡氏系譜」と呼ばれる系図が伝わっています。系図そのものは、江戸時代につくられたものと見られますが、同家に伝わるさまざまな記録をもとにまとめられたものと考えられ、宮城郡の中世史を語る上で多くの貴重な情報を含んでいます。この系譜には、寛正6(1465)年、八幡景盛の次子盛忠が高崎村に居住したことから高崎氏を称したこと、明応7(1498)年、留守氏の要請により、八幡氏の一族として黒川郡での戦いに出陣し、58歳で戦死したことなど記されています。続けて「化度寺と号す」との記載があり、このことが、高崎盛忠を化度寺の開基とする根拠となっているようです。盛忠の死後、天正6(1578)年に八幡氏の家督相続をめぐる争いが起こると、留守政景の指示で高崎近江盛長とその弟修理盛任が出動し、戦功を挙げたとの記載が見出されます。
この化度寺の東側に接して「館たて」と呼ばれる東西・南北約100メートルの平場があり、高崎氏の館と考えられています。近年宅地化が進んでいますが、かつては土塁や外堀の跡が残っていた、との記録があります。平成6年にそのやや北側を発掘調査したところ、上幅約4メートル、深さ約1・5メートルの中世の大溝を発見しています。
「平姓八幡氏系譜」の他、高崎氏に関わる資料はなく、一族の消息は明らかではありません。化度寺についても、次に史料上に現れるのは安永3(1774)年の「風土記御用書かきだし出」であり、縦3間半、横2間半の仏殿をもつ曹洞宗の寺院と記されています。