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歴史の風 133 〜伊治公呰麻呂の乱〜

歴史の風 133

〜伊治公呰麻呂の乱〜

 780(宝亀(ほうき)11)年3月、多賀城の正殿をはじめとする荘厳な建物群が炎に包まれ焼け落ちました。陸奥国の国府がおかれた多賀城炎上という大事件が、平安時代に編さんされた歴史書『続日本紀』の記事にあり、発掘調査によっても明らかになっています。これは伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)によって引き起こされたものです。

 古代の北海道・東北地方には、中央政府が蝦夷と名付けた、いまだ政府の支配を受けていない人々が住んでいました。呰麻呂は蝦夷の出身で、宮城県北の栗原地方の在地有力者と考えられています。蝦夷の征討に参加し、国から外従五の下(げじゅごいのげ)という官位を授けられたり、陸奥国の上治郡(かみじぐん)(此治郡=後の栗原郡の誤記とする説などがある)の大領(たいりょう)(長官)に任ぜられるなど、按察使(あぜち)(多賀城の最高指揮官)紀広純(きのひろずみ)からも信頼されていました。

 大化の改新後、蝦夷が住んでいる地域への支配拡大が始まり、城柵が作られ東日本の人々を移り住まわせていきます。そして724(神亀(じんき)元)年、多賀城が設置されました。その後、律令国家はさらに北へと進出し、8世紀後半、桃生城(ものうじょう)(石巻市)、伊治城(これはりじょう)(栗原市)が造営されます。そのような中で、蝦夷の人々は不満をつのらせていき、774(宝亀5)年、ついに桃生城を襲撃します。これ以降、811(弘仁2)年まで38年間、中央政府と蝦夷との戦いが続くこととなり、これを38年戦争といいます。

 なかでも伊治公呰麻呂によるものが最大の事件とされています。呰麻呂は伊治城において、日ごろ自分を見下す態度をとっていた牡鹿郡大領道嶋(おしかぐんたいりょうみちしま)の大楯(おおだて)を、次いで紀広純を殺害しました。伊治城跡の発掘調査で、この時のものと推定される火災にあった建物が確認されています。この事件をきっかけに、呰麻呂たちは多賀城も焼き討ちし、主要な建物や南門(現在復元中)などはほぼ全焼しました。

 その後、多賀城は暫定的な復旧を経て、本格的な再建・整備が行われ、再び行政や軍事の中心地として機能していきます。