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柏木神社かしわぎじんじゃ

本社の祭神は、延喜式内の社と異った意味において、日本北門の鎮守として特別の施設と殊遇とを受けた鹽竈神社の随従の神としてこの辺土開拓に偉大なる功徳を発揮さられた神である。従ってその創社も古代にさかのぼる。舟山万年はその著「塩松勝譜」に次のように記している。 柏木神祠 大代村に在り、塩廟枝祠の一、土人曰く、神柏樹を愛す。故に祠辺皆柏木也、相伝ふ、神塩神に従ひて塩を煮、柏葉に包みて諸生民に頒ち与ふ。故に柏木の称あり、土人曰く、姙婦之を祈れば患害あることなしと、祠畔に道士あり、明性院と曰ふ。祀の事を掌る。 本社の創建については、明治2年5月26日調書に「勧請、延暦2年(783、平安)、御棟札御座候」と記してあることによって知られる。(今この棟札はない。)中古両部の邪説世に横行して、観音の像を納めて神体とし、もってこれを拝すこと稍久しきに及んだ。明治維新の際これを除き、柏木神社と改めた。即ち、明治2己巳年11月2日の夜、鹽竈一ノ称宜従五位下阿部出雲守藤原朝臣時実祭主となり、村中氏子挙げて神前を賑わしこれが奉告祭を執行した。同4年村社に列格、同42年笠神字上ノ台仁和多利神社に合併、昭和18年今次大戦にあたり鎮座部落一円に海軍工廠の設営することとなり、大代の現在の地に移社する。戦後昭和35年氏子の切なる要望に応え、8月11日本社を設立し、仁和多利神社を笠神の地に、須賀神社を塩竈市牛生の地に、それぞれ独立復帰の許を得て、神殿・境内を整備して神霊を奉還し、遂に氏子を安堵せしめた。社殿は、寛保・宝暦・文政年代に修補を加えたものであったが、明治百年記念として新に御造営申し上げ、旧社殿は、戦没将兵の霊殿として境内に存置した。

宮城県多賀城市大代5丁目17−50