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歴史の風 104 〜中野堰と蒲生堰〜

歴史の風 104

〜中野堰と蒲生堰〜

本市の西端部に位置する新田村は、その西側が七北田川に面した川辺の村です。安永3(1774)年の「新田村風土記御用書出」には、この村にあった、中野堰、蒲生堰という二つの堰(せき)について記載があります。堰とは、水源からの用水の取水口のことで、水口の開閉や水量の調節を行う重要な灌漑(かんがい)施設でした。

中野堰は中野村、福室村、高橋村三ケ村、蒲生堰は中野村、蒲生村(※)二ケ村の、七北田川左岸下流域に用水を供給するもので、その「堰本(せきもと)」、すなわち取水口が新田村にありました。中野堰と蒲生堰からの用水を受けた田地の生産量は「溜高(ためだか)」と表記され、四ケ村で合計約330町歩の水田を潤したと考えられています。

本市新田地区の南西部に「北関合(きたせきあい)」「南関合」という小字があり、南関合は七北田川の堤防に面した地区となっています。『多賀城町誌』は、関合とは二つの堰、すなわち中野堰と蒲生堰の中間の地区にあたるところから名付けたらしいと記しています。南関合から堤防を越えた川辺には、多数の杭が打ち込まれている所があり、そこが蒲生堰の跡と言われています。

中野堰の遺構は、本市の北西部、JR岩切駅の南側約600メートルの七北田川堤防に残っています。取水口には煉瓦が使用され、そこから堤防に沿って南側に延びる小さな堀を今も見ることができます。中野堰は風土記に記載された中野村、福室村、高橋村の人々によって維持管理され、現存では、仙台市高砂水利組合が管理する中野堰機械操作室がその役割を引き継いでいます。

ところで、中野堰と蒲生堰は新田村より南の村に用水を供給しましたが、村の用水ではなかったと風土記には明記されています。村の用水は、さらに上流に設けられた岩切村の山王堰から得ていたようで、村の境界を越え、灌漑用水が整備された江戸時代の様子を知ることができます。

中野堰揚水場の敷地内には、水神と大書された高さ190センチメートルを超える大きな石塔があります。明治8年、「水下講中」によって建立されたこの水神供養の石塔には、中野村、高橋村、福室村三ケ村の願主17人、助力21人が名を連ねており、七北田川の水の恵みを受けた村の歴史を伝えています。

※中野村、福室村、蒲生村は仙台市宮城野区にあった村