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歴史の風 105 〜神社合祀と南宮・山王の神社〜

歴史の風 105

〜神社合祀と南宮・山王の神社〜

明治43(1910)年、南宮の南宮神社と山王の日吉神社は、高橋の大日賣(おおひるめ)神社(大日堂)、新田の冠川神社とともに市川の総社宮(当時は奏社宮)に合祀(ごうし)されました。市川に移すにあたっては、夜、神職が白い馬に乗って先に立ち、南宮神社の御神体を神輿(みこし)に乗せ、人々は提灯を手に持って市川に送ったとされています。この合祀に関して、南宮には次のような言い伝えが残っています。

神社が総社宮に合祀されてしばらくした頃、南宮に疫病がはやり、人々は拝み屋に相談に行きました。すると南宮神社に祀(まつ)られている女神、色(いろ)の御前(ごぜん)が拝み屋の口を使ってその理由を語り始めました。それによると「合祀されて総社宮に移り住んだが、男の神ばかりで私のような若い女神には居心地が悪い。堪えかねて南宮に戻ったが、社は取り壊され、境内の木に止まって凌(しの)ぐも限界である。疫病はそれに気付かせるための祟(たた)りである。」というものでした。これを聞いた人々は、簡素ながらも社を建て、再び色の御前を祀りはじめたということです。

実際、鞘堂(さやどう)に残る大正13(1924)年の棟札、昭和7年の寄進札には、神殿新築、鞘堂新築の記録が記されており、合祀から十数年経って境内が再び整備されていく動きを確認することができます。その背景には、この話からもうかがえる、明治政府が推し進めた神社合祀政策に対する南宮の人々の反発と、鎮守の神とのつながりを保持したいと望む心情があったと考えられます。山王でも、合祀後、日吉神社の祭祀は地元の人々によって続けられていたとされており、人々の心の支えとして、地域の神社がかけがえのない存在であったことがうかがえます。

また、4月の総社宮の例祭では、合祀という歴史をもつ神社を総社宮の神輿が回り、南宮・山王でも各所で神輿を迎えて担ぎ手をもてなします。毎年見られる地元ではなじみの光景ですが、かつての神社合祀という大きな歴史の一端を伝えています。

令和2年度の「歴史の風」は、南宮・山王地区の文化財調査の成果をもとにした内容を掲載します。