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多賀城偉人伝

多賀城人物伝 大野東人

人物伝

大野東人[?~742]

多賀城を創建し、陸奥統治の基礎を築いた武人

大野東人

 大野東人は多賀城を創建した奈良時代前半の武人で、多賀城碑にもその名が刻まれています。

 東人は、壬申の乱で活躍した大野果安の子として生まれ、武人であった果安の子らしく、和銅7年(714)、騎兵を率いて新羅の外交使節を出迎えたという記事で、初めて記録に登場します。

 神亀元年(724)、東人により多賀城が築かれますが、この年には海道(太平洋)の蝦夷が反乱し、陸奥国の官人が殺害されるという事件が起きています。直ちに藤原宇合を大将軍とする征討軍が派遣され、反乱の鎮圧にあたっていますが、征討軍の中に東人の名は見えません。しかし、後の征討に対する叙勲の際にはその名が見えることから、征討軍の要職についていたようです。

 天平9年(737)には按察使兼鎮守府将軍として東北地方の最高責任者であった東人は、多賀城を拠点に、雄勝村(秋田県)を攻略して城郭を築き多賀城ー出羽柵間の連絡路を開こうとします。しかし、大雪が降るなど作戦は順調に進まず、「城を守るのは人間であり、人を活かすには食糧が必要である。耕作の時期を失えば、何を兵士に給することができようか。さらに兵というものは、利をみて動き、利益がなければ行動しない。それ故、軍を引き上げて一旦帰り、今後を待って始めて城郭を作ろう」と、多賀城へ引き返しています。東人が、勇猛なばかりでなく、状況を的確に判断できる人物であったことをうかがわせるエピソードと言えるでしょう。

 その後、都に戻った東人は参議となりますが、天平12年(740)に九州で藤原広嗣(藤原宇合の子)の乱が起きると、大将軍として1万7千の兵士を率いて鎮圧に向かいます。この乱の影響は大きく、聖武天皇は東人に気を遣いつつも、乱の最中、伊勢方面へ行幸し、平定後も平城京へは戻らず、恭仁京(京都府)に遷都してしまいます。

 翌年、東人は平城京の留守官に任じられましたが、天平14年(742)没しました。 東人は、東北地方の経営に積極的に取り組み、その礎を築いた東北地方の古代史上、最重要人物の一人といえるでしょう。