多賀城人物伝 百済王敬福
人物伝二
百済王敬福[697~766]
陸奥で金を献じ、朝廷に栄誉をもたらした公卿

百済王敬福は、かつて朝鮮半島にあった百済国の王族の子孫にあたる人物で、文武天皇元年(697)百済国最後の王のひ孫にあたる百済王郎虞の子として生まれました。
敬福は、天平10年(738)陸奥介(陸奥国の次官)として記録に登場します。この時の陸奥守(長官)は、多賀城を創建し、鎮守府将軍の職も兼任していた大野東人でした。その後、天平15年(743)には陸奥守になります。
天平21年(749)陸奥国小田郡(宮城県涌谷町)で黄金が発見されたという知らせが都に届きます。
当時、仏教の力で国を治めようとしていた聖武天皇は、東大寺の大仏建立を進めていましたが、完成を目前にして大仏に塗る黄金が不足してしまい、中国からの輸入まで考えていたようです。そのため、900両の黄金が献上された時の天皇の喜びは大きく、年号を天平から天平感宝に改めたほどです。これにより陸奥守であった敬福は、位が7階級特進する異例の出世を遂げました。
当時、越中国(富山県)に赴任していた万葉歌人として有名な大伴家持は 「すめろきの御世 えむと なる 陸奥山に金花咲く」 と黄金発見を祝した歌を残しています。
その後敬福は、橘奈良麻呂の乱では反乱者を勾留し、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱では、仲麻呂によってたてられた淳仁天皇を幽閉する任にあたるなど政治の表舞台で活躍します。
敬福の人柄について記録には「性格は気ままで規則にとらわれず、大変酒食を好んだ。役人や人民がやってきて清貧のことを告げると、その度、他人のものを借りてまで望外のものを与えた。このため、しばしば地方官に任じられても家にゆとりがなく、財産がなかった。しかし、その性分は物分りがよく、政治の力量があった」と記されています。
政変・反乱の多かった激動の時代、これらに加担することなく無事生き抜いた敬福は、天平神護2年(766)、69歳で亡くなりました。