多賀城人物伝 藤原朝獦
人物伝三
藤原朝獦[~764]
多賀城を改修し、東北防備と外交を担った参議

多賀城を修造し、多賀城碑に名を留めている藤原朝獦は、奈良時代の半ば、国の政治の実権を握っていた藤原仲麻呂(恵美押勝)の四男として生まれました。
朝獦は、橘奈良麻呂の乱後の天平勝宝9歳(757)、陸奥守として初めて記録に登場します。その後、按察使兼鎮守将軍として、東北地方の全権を任された朝獦は、対蝦夷政策を積極的に進めます。かつて大野東人が意図しながら果たすことのできなかった雄勝城(秋田県)造営を戦わずして成し遂げ、さらに太平洋側においては、桃生城(宮城県石巻市)をつくり、蝦夷にとって重要な地点を奪うことに成功します。また、多賀城、秋田城を改修し、太平洋側・日本海側それぞれの拠点の強化を図りました。
天平宝字4年(760)正月、これらの功績が認められ、2階級特進した朝獦は、同年9月、新羅国の使者が大宰府にやってくると、対蝦夷政策の手腕を評価され、使者と接見する外交官に抜擢されました。
朝廷では当時、新羅征討の準備を進めており、また、派遣されてきた使者が下級役人であったこと、さらに、しばらく連絡がなく、礼儀を欠いていたことなどから、朝獦は強硬な態度をとり、使者を追い返してしまいます。
その後、東海道節度使、仁部卿などの重要ポストを歴任し、天平宝字6年(762)12月1日、兄の真先、久須麻呂らとともに参議となり、親子4人が国政を動かす地位につくという異常な事態となります。 このような中、淳仁天皇を擁する仲麻呂、朝獦親子らに対抗するように、孝謙上皇は僧の道鏡を重んじ始め、主導権をめぐる対立が表面化します。
天平宝字8年(764)9月、仲麻呂が反乱を企てていることが発覚、朝獦の兄、久須麻呂が陸奥国牡鹿郡出身の牡鹿嶋足に討たれます。朝獦は父仲麻呂らとともに平城京を脱出し、近江国府(滋賀県)で再起を図ろうとしましたが、国府手前の勢田橋を壊され、進路を絶たれてしまったため、弟・辛加知が国司を務める越前国(福井県)を目指そうとします。しかし、ここでも先手を打たれ、行く手を阻まれた朝獦らは、近江国高島郡(滋賀県高島市)に退き抵抗を試みますが敗れ、父仲麻呂とともに命を絶たれました。仲麻呂の反乱発覚からわずか一週間足らずのことでした。