多賀城人物伝 大伴家持
人物伝四
大伴家持[718?~785]
陸奥で鎮定にあたり、多賀城に赴いた歌人・官人

平城宮の東、佐保と呼ばれる地で大伴家持は生まれました。祖父の安麻呂、父の旅人いずれも大納言という、名門の家柄です。
天平17年(745)、従五位下の位を与えられた記事によって、初めて記録に登場、その後越中国(富山県)の長官や兵部省の次官などを歴任します。この頃中央では藤原仲麻呂が絶大な権力を握り、古来よりの氏族は力を失いつつありました。大伴氏も例外ではなく、家持にとっても不遇な時代が続きますが、宝亀元年(770)、光仁天皇の時代になり、中央政界に復帰します。
宝亀11年(780)、陸奥国上治郡(宮城県栗原市)の長官であった伊治公呰麻呂が、伊治城で按察使紀広純を殺害し、次いで多賀城を襲撃・放火するという大事件が起こり、陸奥国は混乱状態に陥ります。この時、事態の収拾を任されたのが家持でした。延暦元年(782)に按察使兼鎮守将軍、同3年には持節征東将軍に任命され、蝦夷政策の全権を担って多賀城に赴任します。翌延暦4年4月には、緊急事態に備え、多賀・階上二郡を仮の郡から真郡にするよう政府に要請するなど、依然不安定な多賀城近辺の復興と整備に力を注ぎます。しかし、蝦夷に対しては積極的な制圧を行えないまま、同年8月28日亡くなりました。
ところが死後20日あまりの後、長岡京造営の責任者であった藤原種継の暗殺事件が起こり、家持も関与したということで、官位を奪われ、私財も没収されるなどの厳しい処分が下されます。名誉が回復され、位が元に戻るのは、桓武天皇の死の直前、大同元年(806)3月になってからのことでした。
家持は官人である一方、万葉集に最も多くの歌を残した歌人であり、その編者とも言われています。 「新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいや重け吉事」
めでたさの象徴である雪が降りしきるように、良い事が重なってほしいとの願いがこめられたこの歌は、天平宝字3年(759)元日に因幡国府(鳥取市)で家持が詠んだものです。この一首をもって万葉集は締めくくられました。この後、家持の歌は残されていません。
名門大伴氏の長として軍世紀・政治的に大きな功績を残せず、官位においても祖父や父に及ばなかった家持ですが、万葉集の成立に果たした役割は計り知れず、その名を不朽のものとしています。