多賀城人物伝 五 坂上田村麻呂
人物伝五
坂上田村麻呂[758~811]
征夷大将軍としてみちのくの平定を導いた将

征夷大将軍坂上田村麻呂が活躍したのは平安時代の初めで、その主な舞台は現在の宮城県北から岩手県南にかけてでした。当時、多賀城が治める陸奥国の北には、中央政府の支配に入らない蝦夷の住む広大な地が広がり、その地を支配することは、政府の最大の目標でした。多賀城はその役割を担う機関でもあったのです。
支配を強化してきた政府に反発し、宝亀5年(774)、蝦夷が桃生城(宮城県石巻市)を襲ったのをきっかけに、約40年にわたる戦乱の時代が続きます。その中で、延暦10年(791)、田村麻呂は征夷副将軍に任命され、初めて陸奥国との関わりをもちます。
その後、延暦15年には按察使・陸奥守・鎮守将軍の三官を兼任、さらに翌16年には征夷大将軍に任命され、対蝦夷戦争における最高責任者となります。そして延暦20年(801)、胆沢(岩手県奥州市)の首長阿弖流為・母礼を降伏させ、長期にわたった戦争を終結に導きました。
数々の功績を挙げ、大納言にまで昇進した田村麻呂は、弘仁2年(811)、平安京において54歳の生涯を閉じました。立ちながら甲冑を身につけ、武器を携え、東、すなわち陸奥へ向かって葬られたといいます。また、その墓は、国家の非常時にはまるで鼓を打つような、あるいは雷鳴のような音で警告を発したといいます。
死後も都と天皇を守るべく、厚い信頼を寄せた田村麻呂とは、どのような人だったのでしょうか。記録には「怒れば猛獣もたおれ、笑えば幼子もなつく」と記され、180cmの長身で赤ら顔、目は澄んで鋭く、黄金色のあご髭が豊かであったといいます。
蝦夷との戦いを収束させた「英雄」田村麻呂のイメージは、後世生み出された多くの伝説によって、広く浸透していきました。また、京都の清水寺をはじめ、田村麻呂創建と伝える寺社が全国に存在し、その武勇はさまざまな形で受け継がれ、今に至っています。