多賀城人物伝 六 源融
人物伝六
源融[822~895]
陸奥出羽按察使に赴き、みちのくを愛でた文化人

源融は、源氏物語の主人公である光源氏のモデルとされている人物の一人です。融は、弘仁13年(822)、嵯峨天皇の第八皇子として生まれ、承和5年(838)、源の姓を与えられ、同時に当時の天皇であった仁明天皇の養子になります。このような経歴から、光源氏のモデルとみなされたのでしょう。 貞観6年(864)3月、中納言のまま、陸奥出羽按察使に任命され、この時始めて陸奥国と関わりをもつことになります。その後大納言から左大臣へと昇進し、元慶8年(884)、陽成天皇が廃位した時に皇位継承を望んだものの、融を超えて太政大臣に就任した藤原基経に退けられるなど、政治的にはままならないことも多かったようです。
一方、文化人としての名声は高く、鴨川のほとりに「河原院」と呼ばれた広大な邸宅を構え、陸奥国塩竈の風景を模した庭を造りました。そこにはみちのくの歌枕のひとつ、「籬ノ島」もあり、さらには難波から海水を運ばせて藻塩を焼かせるなど、風流かつ贅沢極まりない生活をしたと伝えられています。
こうした風流ぶりや河原院をめぐる逸話は、その後の文学作品にも取り上げられ、能「融」のモチーフともなりました。按察使に任命された融が多賀城に赴任したかどうか、定かではありません。しかしみちのくの風景を愛でた融の伝説は、いつしか地元にも根付きました。市内には、通称「大臣宮」と呼ばれる小高い丘が東北本線高平踏切の南東にあり、かつてここには「大臣宮」と刻まれた石柱が立っていました。現在その丘は失われてしまいましたが、石柱は線路南に安置されています。それ以前には石の祠が祀られていたとのことで、これは現在、浮島神社に合祀されています。この石柱に刻まれた「大臣」こそ、左大臣源融ではないかとの言い伝えが江戸時代の記録に残っています。
また、塩竈市内には融ヶ岡(塩竈市泉ヶ丘)と呼ばれる場所もあり、多賀城近辺には融の面影が今なお生き続けています。