多賀城人物伝 八 西行
人物伝八
西行[1118~1190]
多賀城を訪れ、みちのくを詠んだ旅情深い歌人

西行は俗名を佐藤義清といい、京の都にあって代々宮中警護などを務める武勇の家に生まれました。承平・天慶の乱で功績を挙げた藤原秀郷を祖先をもち、奥州藤原氏とも縁続きでした。
義清は保延元年(1135)、朝廷の親衛組織である兵衛府の官僚に任ぜられた後、上皇の御所の北面に控え、警護にあたる北面の武士として鳥羽上皇に仕え、さらに和歌、流鏑馬、蹴鞠などに多彩な才能を発揮しました。
ところが保延6年(1140)、23歳の若さで出家してしまいます。親友の急死に遭い、無常を感じたのが動機となったという「西行物語」の説が主流ですが、「源平盛衰記」には、ある高貴な女性に対する失恋によるものとあります。
出家後数年は嵯峨野や東山に草庵を結んで仏道に励み、吉野(奈良県)で山伏修行をしたとも伝えられています。そのかたわら、諸国を巡り、数多くの優れた和歌を残しました。
西行は生涯に2度、陸奥国を訪れています。最初は30歳前後で、みちのくの歌枕に憧れ、藤原実方や能因の足跡を慕っての旅と考えられています。2度目は晩年、文治2年(1186)のことで、源平合戦の際、平重衡によって焼き討ちされた東大寺復興のため、奥州藤原氏に対して砂金の提供を依頼するという使命を担ってのことでした。
平泉への途中、鎌倉に立ち寄った西行は、源頼朝と面会しています。その際、頼朝の求めに応じて兵法について語り、終夜に及んだと言われています。翌日、引き留められながらも平泉へ向かって旅立つ西行に、頼朝は銀作りの猫を贈りましたが、それを門前で遊ぶ子供に与えてしまったというエピソードが「吾妻鏡」に残されています。
西行自身が選んだとも言われている歌集「山家集」には、壺碑、おもわくの橋を詠み込んだ 「むつのくのおくゆかしくそ おもほゆる つぼのいしぶみそとのはまかせ」 「ふままうき もみじのにしきしりしきて 人しかよわぬおしばくの橋」 の歌が収められており、西行と陸奥国とのかかわりを示しています。
西行の生き方が与えた影響の深さは宗祇や芭蕉といった中世・近世の文学者に及び、さらに全国に残る西行ゆかりの地によっても窺うことができます。
市内野田の玉川にかかる「おもわくの橋」は、西行の歌にちなみ、仙台藩によって整備された歌枕で、今も西行を偲ぶよすがとして、多くの人々に親しまれています。