多賀城人物伝 七 源義家
人物伝七
源義家[1039~1106]
陸奥で戦功を挙げ前九年・後三年に活躍した武将

文武両道に秀でた英雄として名高い源義家は、前九年の役で活躍した源頼義の嫡子として長暦3年(1039)に生まれました。石清水八幡宮(京都府)で元服したことから、八幡太郎とも呼ばれています。
義家が歴史の表舞台に出てくるのは、永承6年(1051)、陸奥国で起きた安倍氏の反乱を鎮めるため、父頼義に従って出陣した前九年の役からです。この戦いで頼義・義家親子は苦戦を強いられながらも、出羽国(秋田・山形県)の豪族清原氏の応援によって安倍貞任を破りました。義家は乱を平定した功績で出羽守に任ぜられ、父の死後、源氏の棟梁を継ぎます。
前九年の役から20年後の永保3年(1083)、陸奥守として再び陸奥国にやってきた義家は、安倍氏に代わり勢力を伸ばしていた清原氏の内紛に介入します(後三年の役)。この戦いで義家は、清原清衡(後の藤原清衡)に加勢し、寒さと食糧不足に悩まされながらも勝利します。
ところが、この合戦は清原一族の内乱にすぎないとみなされたため、朝廷からの恩賞は得られませんでした。義家は、苦しい戦いをしてきた東国の武士達に自分の財産をなげうって恩賞を与えたといい、後に源頼朝が平氏打倒の兵を挙げた際、東国武士がいち早く駆けつけたのも、その時の恩義を感じてのことと言われています。その後、義家は後三年の役で本来の職務を怠ったため、新たな官職に就くことができず、位もそのままに据え置かれてしまいます。後三年の役から11年後の承徳2年(1098)にようやく昇進するものの、嫡子義親の謀反や一族同士が争うなど苦境に立たされた中、嘉承元年(1106)、68歳でこの世を去りました。
武勇の面で語られることの多い義家ですが、「千載和歌集」には 「吹く風を なこその関と思へども 道もせにちる 山桜かな」 という歌が載せられています。
鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏の祖先にあたることから、武将の理想像としてさまざまな伝説や逸話が生まれ、今日まで語り継がれています。